黒猫クロちゃん
対立が生じたニャー
パレスチナ問題とは、第二次世界大戦後につくられた人口的な国家イスラエルにおいて、パレスチナをめぐるユダヤ人(イスラエル)とパレスチナ人(パレスチナに定住していたアラブ人)との紛争のことです。
📝目次
19世紀末のヨーロッパで始まったシオニズム運動
19世紀末のヨーロッパで、テオドア・ヘルツルの提唱によってシオニズム運動が始まりました。1897年の第1回シオニスト会議が採択した「バーゼル網領」は、ヨーロッパ各国において抑圧を被ってきたユダヤ人の「ナショナリズム」を興し、植民活動によって世界のどこかにユダヤ人の郷土(国家)を建設する運動を提起しました。やがてこの運動は、当時、アラブ人が定住していたパレスチナ地方を、旧約聖書に基づいて「シオンの丘」、「イスラエルの地」、「約束の地」と認識し、「シオンに帰れ」を合い言葉に移民を進めました。
中東の分割統治計画が進行
第一次世界大戦のさなかに、エジプトのイギリス高等弁務官マクマホンはメッカのシャリフであったフセインと書簡を交わし、戦後のアラブ独立を約束してオスマン帝国に対抗する軍事行動への協力を求めました。また、戦争の長期化に伴って財政困難に陥りつつあったイギリスの外相バルフォアは、ユダヤ人からの財政援助を期待して在英ユダヤ人協会会長ロスチャイルドに書簡を宛て、戦争終結の後にパレスチナにユダヤ人の「ナショナル・ホーム」を建設することを英政府は支持すると表明しました。さらに、英政府は大戦の開始直後から戦後における中東への支配拡大を戦争目的とし、この地域の分割を仏、露両政府と密約した両国は、新たに建国されたトルコ共和国領とアラビア半島を除くオスマン帝国領を国際連盟の委任統治領として両国で分割統治することを決めました。パレスチナはイギリスの委任統治領とされた。これは、アラブ、ユダヤ双方からの不満を招きました。
パレスチナ問題が発生
もともとパレスチナでは、アラブ人を中心とするイスラム教徒と、少数のユダヤ人が共存しており、大きな民族・宗教紛争は生じていなかったのです。しかし、戦争のためにイギリスがユダヤ・アラブ双方に矛盾する空手形を出したことが、パレスチナ問題を生み出しました。しかも、その約束が真剣なものでなかったことは、1916年にフランスとサイクス=ピコ条約を結び、ロシアの承認もとりつけたことに示されていました。この結果、イギリスは現在のイラク中・南部、ヨルダン、パレスチナ南部を、フランスはイラク北部からシリア、レバノンを、ロシアはボスポラス・ダーダネルス海峡と国境隣接部をそれぞれ分割支配し、パレスチナ北部を国際管理することになりました。戦後イギリスは、パレスチナ北部をも委任統治領とし、エジプトも保護国としました(1922年に独立)。しかしのちにイギリスは、領内の鉄道・河川・港湾などの戦時使用などを条件にイラクの委任統治を終了し、スエズ運河地帯をのぞいて1882年依頼のエジプト占領を中止しました。東部パレスチナもトランス=ヨルダン(現ヨルダン)として独立したが、国境線は人為的に画定された。つまりパレスチナ問題とは、ユダヤ・シオニズムとアラブ民族主義、英仏など植民地帝国の利害が錯綜して生成されたのでした。
シオニズム運動の拡大や紛争が激化
ユダヤ人とアラブ人は、民族や宗教の違いだけでなく土地や経済的利益をめぐっても衝突しました。イギリスはアラブ人の怒りをなだめるためユダヤ人の入植を制限し(のち完全停止)、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割しようとしました。しかし、シオニズムはますます高揚し、第二次世界大戦直後にはパレスチナのユダヤ人口は60万に達しました。土地を奪われたパレスチナ人はテロに訴え、ユダヤ人もこれに応酬しました。パレスチナ支配をつづけようとしたイギリスは、兵員と財源の消耗に耐えきれず、1947年にパレスチナ統治を放棄し、問題を国連に委託したのです。
聖地エルサレムを国際管理下におく提案が対立を生む
国連パレスチナ特別委員会は、パルスチナをアラブ・ユダヤ国家に分割し、ユダヤ・キリスト・イスラム教の聖地エルサレムなどを国際管理下におくという解決を示しました。アラブ人は分割そのものに反対しました。ユダヤ人はバルフォア宣言の約束にはおよばないがユダヤ国家を国際的に認め、人口比で3分の1にすぎないユダヤ人に面積比で56%をあたえる国連案を支持しました。
パレスチナ戦争の勃発
国連総会は、パレスチナをユダヤ人とアラブ人の国家に2分割し、エルサレムを国際都市とする議決を行ないました。この決議に基づいて1948年にイスラエルが建国宣言を行ない、米、ソ両国がこれを承認しました。しかし、アラブ人は国連決議の受諾を拒否し、イスラエルの建国に真っ向から立ち向かいました。ここにパレスチナにおけるアラブ、ユダヤの武力紛争が開始され、周辺のアラブ5カ国も派兵し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が戦われたのでした。戦争はイスラエルの勝利に終わり、イスラエルは国連決議がユダヤ国家と定めた領域を超えて領土を拡張しました。かつてパレスチナに定住していたアラブ人は暴力的に故郷を追われ、170万人が難民となって周辺のアラブ諸国に流出しました。戦後のパレスチナ問題の始まりでした。
まとめ
19世紀末にヨーロッパで始まったシオニズム運動は、ユダヤ人の国家建設を追求しました。第一次世界大戦中に英仏などの植民地帝国がパレスチナ分割支配を合意し、これがパレスチナ問題の発端となりました。国連はパレスチナをアラブ・ユダヤ国家に分割し、イスラエルが建国されましたが、アラブ諸国は反対し武力紛争が勃発。この紛争が現在も続いています。
参考文献
・佐々木雄太『国際政治史世界戦争の時代から21世紀へ』(名古屋大学出版会,2011年)250頁,252頁
・松岡完『20世紀の国際政治 二度の世界大戦と冷戦を経て 』(同分館出版,2014年,第3版)209~210頁,212頁








