保育器の中の命を、25セントの見世物が救った ―― 医師免許なき“保育器ドクター”マーティン・クーニー
黒猫クロちゃん
見世物赤ちゃんニャー
「その子は生きられない」と医者に告げられた赤ちゃんが、コニーアイランドの見世物小屋で、ガラス越しに大勢の観客に見られながら息を吹き返す。 20世紀初頭のアメリカで、病院が手を引いた未熟児たちを受け入れ、延べ約8,000人を預かり、約6,500人を救ったとされる男がいます。名前はマーティン・クーニー。ところがこの「ドクター」、医師免許を持っていた記録がどこにも見つかりません。これは、医療と見世物、善意と虚偽がひとつの人体に同居してしまった人物の物語です。
📝目次
1. マーティン・クーニーとは何者だったのか
マーティン・アーサー・クーニー(Martin Arthur Couney)は、1869年に当時プロイセン王国領だったクロトシン(Krotoszyn、現在のポーランド)に、マイケル・コーヘン(Michael Cohen / Cohn)として生まれました。ドイツ系ユダヤ系の家系です。没年月日は1950年3月1日、80歳で亡くなっています Wikipedia。
彼を一言で表すなら、「宣伝上手な興行師であり、結果として新生児医療の普及を後押ししてしまった男」です。本人は終生、自分を「ドクター」と名乗り、ドイツのライプツィヒとベルリンで医学を学び、パリで新生児医学の父ピエール・コンスタン・ブーダン(Pierre-Constant Budin)に師事したと語っていました Wikipedia。
一方で、後述するとおり、その経歴を裏付ける公的記録は見つかっていません。にもかかわらず、彼が集めた医師と看護師のチームは当時のアメリカで最高水準のケアを提供していたと、現代の小児科医たちも認めています。
「私はマーティン・クーニーを切り捨てたりはしません。当時、彼は医療界から十分に尊敬されていました。彼の施設は非常に評判が高く、医師たちによく知られていました」 ―― シカゴ大学名誉教授 ローレンス・ガートナー医師 Smithsonian Magazine
2. 1896年ベルリン ―― 6人の赤ちゃんから始まった
物語の起点は、保育器そのものの誕生にあります。未熟児用保育器を世に出した最初の医師は、フランスの産科医エティエンヌ・ステファヌ・タルニエでした。タルニエは1870年代後半、パリの動物園でひよこを温めている孵卵器を見て、低体温で亡くなっていく未熟児に同じ仕組みが使えると考えたのです PBS NewsHour。
タルニエの弟子で、パリの産院で未熟児施設を整備したのがブーダンでした。そして1896年、ブーダンはクーニーをベルリン大産業博覧会(Great Industrial Exposition)へ派遣します。新しい保育器モデルを欧州中に広め、その有効性を実演させるためでした embryo.asu.edu。
そこでクーニーが開いたのが「キンダーブルートアンシュタルト(Kinderbrutanstalt)=子どもの孵卵場」と名付けられた展示です。
- シャリテ病院の院長ルドルフ・フィルヒョウから、死ぬと予想されていた未熟児6人を引き取った embryo.asu.edu
- 博覧会場のパビリオンに保育器を並べ、10万人以上が有料で見物した embryo.asu.edu
- 博覧会が続いた2か月間、6人全員が生存した embryo.asu.edu
「見せること」が「治すこと」と結びついた瞬間でした。そしてこの構図――医療が無料、収益は観客の入場料――が、以後40年以上続くクーニーのビジネスモデルになります。
3. 年表で追う「保育器展示」の旅路
クーニーは博覧会と遊園地を渡り歩きました。資料によって年・場所に若干の揺れがあるため、複数ソースを突き合わせた形で整理します。
| 年 | 場所・博覧会 | 内容・補足 |
|---|---|---|
| 1896 | ベルリン大産業博覧会 | ブーダンの代理人として「子どもの孵卵場」を運営。未熟児6人全員が生存 embryo.asu.edu |
| 1897 | ロンドン(アールズ・コート) | ヴィクトリア朝博覧会に出品。赤ちゃんはフランスから、湯たんぽ入りの籠に入れて英仏海峡を船で運んだ embryo.asu.edu・BBC News ※Wikipediaは「ヴィクトリア女王即位60年式典に興行主サミュエル・シェンカインに招かれた」とする Wikipedia |
| 1898 | オマハ(トランス・ミシシッピ国際博覧会) | アメリカ初の展示。しかし田舎の会場で客足が伸びず、クーニーは欧州へ戻る embryo.asu.edu |
| 1900 | パリ万国博覧会 | 再び欧州へ embryo.asu.edu |
| 1901 | バッファロー(パン・アメリカン博覧会) | 科学部門ではなく娯楽部門に専用館を建設。『Pediatrics』『Scientific American』『Cosmopolitan』が報道し、終了後にバッファロー小児病院が保育器を複数購入 embryo.asu.edu |
| 1903頃〜1943 | コニーアイランド(ルナパーク) | 本拠地となる。1903年説・1904年説あり Wikipedia・embryo.asu.edu |
| 1904頃〜1911 | コニーアイランド(ドリームランド) | 1911年の火災で終了 Coney Island History Project |
| 1905〜1943 | アトランティックシティ | 38年間運営 Wikipedia・BBC News |
| 1915 | サンフランシスコ(パナマ・パシフィック国際博覧会) | 各地の遊園地・博覧会を巡回 embryo.asu.edu |
| 1933/34 | シカゴ万博(Century of Progress) | 小児科医ジュリアス・ヘスと共同運営。看板は「Living Babies in Incubators」 Smithsonian Magazine |
| 1939/40 | ニューヨーク万博 | 最終期の主要拠点。イェール大学のアーノルド・ゲゼルが撮影に訪れる Smithsonian Magazine |
4. コニーアイランドの「乳児孵化場(インファントリウム)」
1903年、コニーアイランドがクーニーの主戦場になります。当時のコニーアイランドは、四本足の女性、剣呑み、ライオンの顔をした男といった見世物が並ぶ場所でした。その一角に、ガラスと鋼鉄の保育器がずらりと並ぶ「もうひとつの見世物」があったのです PBS NewsHour。
客引きの中には、若き日のケーリー・グラントもいたと伝えられています PBS NewsHour。入口の看板には「All the World Loves a Baby(世界中が赤ちゃんを愛している)」と掲げられていました BBC News。
外は見世物、中は病棟。 これがクーニー施設の本質でした。内部の様子はこう記録されています。
- 白い制服の看護師と白衣の医師が保育器を担当。赤ちゃんは服が売られていないほど小さく、人形用の服と手編みのボンネットを着せられていた Smithsonian Magazine
- 授乳は母乳を重視。母乳を出す「乳母」の食事は専属コックが用意し、喫煙・飲酒・ホットドッグの間食が発覚した乳母は即解雇 BBC News
- 施設は常に徹底的に清掃された BBC News
- 当時の医療常識に反し、保育器から赤ちゃんを出して抱きしめ、キスするよう看護師に勧めていた(愛情への反応を信じていた) BBC News
- スタッフは乳母5人と、訓練を受けた医療技術者15人。その中には看護師になった実娘ヒルデガルドもいました Coney Island History Project
医療史家ジェフリー・ベイカーは、クーニーの展示について「当時のどの病院も及ばなかった水準の技術的ケアを提供していた」と評価しています PBS NewsHour。
5. ビジネスモデル ―― 入場料25セントが医療費を払う
クーニーの仕組みを理解する鍵は、「誰が払うか」です。
- 観客は25セントを払って赤ちゃんを見る Wikipedia
- 赤ちゃんの両親からは一銭も取らない。費用はすべて入場料から賄われた Wikipedia・Coney Island History Project
- 入場料は看護師の賃金や展示の移動費にも充てられた Wikipedia
- 1903年当時、赤ちゃん1人あたり1日約15ドル(現在の価値で約405ドル)の費用がかかった BBC News・Smithsonian Magazine
- 人種も社会階層も問わず受け入れた。これは当時としてはきわめて進歩的な方針だった Smithsonian Magazine
つまり、興行収益が貧しい家庭の新生児医療を事実上無償で支える、という再分配の構造です。1920年に2ポンド未満で生まれ、医者から生存を絶望視されたルシール・ホーンは、こう振り返っています。
「父は私が手のひらに乗るほど小さかったと言っていました。私は弱すぎて生きられなかった。生きる資格がないから死ぬんだ、と。……父は『コニーアイランドの保育器に連れて行く』と言って、タクシーを飛ばしてドクター・クーニーの展示に私を連れて行ったんです。そこに私は半年ほどいました」 ―― ルシール・ホーン(1920年生まれ) PBS NewsHour
6. 最大の謎 ―― 彼は本当に「医師」だったのか
ここが、この物語で最も慎重に書かねばならない部分です。
クーニーは医師ではなかった可能性が高い、というのが現在の有力な見方です。
- 本人は「ライプツィヒとベルリンで医学を学んだ」「免許はヨーロッパのものだからアメリカでは通用しない」と説明していた Wikipedia
- しかしどちらの都市の大学にも、彼(当時の名はコーヘン/コーン)が医学を学んだ証拠は見つかっていない。ドイツで医師になるには論文が必要だが、米国国立医学図書館のドイツ語記録にも彼の論文は存在しない Smithsonian Magazine
- 生年月日と出生地についても意図的に曖昧にしていた。ジャーナリストのクレア・プレンティスは、1888年、19歳で渡米したことを突き止めている。その年齢ならライプツィヒ・ベルリンで学び、さらにパリでブーダンに師事する時間的余裕はない Smithsonian Magazine
- 1910年の米国国勢調査では職業を「外科用器具(surgical instruments)」と記入。1930年には「医師」と書くようになる。保育器の発明者と自称していたが、米国で保育器の特許を取った形跡も見つかっていない。実態は技術者(technician)だった可能性が高い Smithsonian Magazine
- 一方で、パリでブーダンの下で実地に学んだこと自体は広く受け入れられている Wikipedia
もし経歴詐称が発覚していれば、高額の罰金と長期の禁固刑を覚悟しなければならなかったとされています Smithsonian Magazine。
注意: 「無免許の偽医者」と断罪することも、「偉大な医師」と持ち上げることも、どちらも不正確です。確認できるのは「医師免許の記録がないまま、医師を名乗り続けた」という事実と、「結果として高度なケアを提供していた」という事実です。
7. わが子ヒルデガルド、そして家族
クーニーの人生に決定的な影響を与えた出来事が、1907年に起きます。
- 娘ヒルデガルド(Hildegarde)が6週間早く、体重3ポンド(約1.4kg)で誕生 Wikipedia
- 彼女は父自身の展示施設の保育器で育てられた PBS NewsHour
- 成長後は看護師の資格を取り、父の事業に加わった BBC News・Coney Island History Project
妻はアナベル・メイ(Annabelle Maye)。もともとクーニーの施設で働いていた看護師で、1903年に結婚し、1936年に先立たれています Wikipedia・neonatology.net。
我が子を同じ装置で救ったという事実は、彼の主張に説得力を与えました。そして皮肉なことに、「未熟児は救う価値がある」と信じていなければ、この展示は成立しなかったわけです。
8. 医療界との攻防 ―― 批判、告発、そして歩み寄り
クーニーの立場は終始不安定でした。
批判の側
- 医療関係者の多くは彼を疑いの目、時には露骨な敵意で見ていた Smithsonian Magazine
- ニューヨーク児童虐待防止協会は、赤ちゃんを搾取し生命を危険に晒しているとして繰り返し告発 Smithsonian Magazine
- 「母親の本性に反する」として閉鎖を求める声もあった Coney Island History Project
そして、告発は一度も認められなかった。 1930年代に入ると、クーニーは医療の先駆者として真剣に扱われ始めます Smithsonian Magazine。
協力の側
- 1930年代後半まで、アメリカの病院に保育器はほとんどなかった。だから医師たちは未熟児をクーニーのもとへ送った Smithsonian Magazine
- 小児科医ジュリアス・ヘスは1922年の著書『Premature and Congenitally Diseased Infants』で「ドクター・マーティン・クーニーに負うところが大きい」と謝辞を記した Smithsonian Magazine
- イェール大学のアーノルド・ゲゼルは1939年ニューヨーク万博のクーニー施設を何度も訪れ、カメラマンを連れて赤ちゃんを撮影した。ただし自著ではクーニーにも見世物の設定にも一切触れていない Smithsonian Magazine
- 最も意外なのは、アメリカ医師会(AMA)会長として“ヤブ医者狩り”を指揮したモリス・フィッシュバインと親しかったこと。フィッシュバインは医師を目指す息子をニューヨークのクーニーのもとへ相談に行かせている Smithsonian Magazine
本人はこう語っていました。
「私は生涯ずっと、かつては死ぬがままにされていた未熟児の適切なケアのための“プロパガンダ”をやってきた」 ―― 1939年、A.J.リーブリング(『ニューヨーカー』)への発言 PBS NewsHour
医療史家ベイカーは「クーニーは伝道者だったのか、興行師だったのか」という問いに対し、「本質的な問いはそれだ。おそらく彼の中には両方が少しずつあったのだろう」と答えています PBS NewsHour。実際、赤ちゃんを実際より小さく見せるためにあえて大きすぎる服を着せていたとも伝えられています PBS NewsHour。
9. 「8,000人中6,500人」という数字の読み方
最も注意が必要なのがこの数字です。
| 数字 | 内容 | 出典と注記 |
|---|---|---|
| 約8,000人 | クーニーが預かった赤ちゃんの総数 | 本人の主張ベース Smithsonian Magazine |
| 約6,500人 | 救ったとされる人数 | 本人の主張。検証不能 Smithsonian Magazine・Wikipedia |
| 85% | 本人が主張した生存率 | 本人の主張 BBC News |
| 8,000人以上/6,500人 | 1939年時点の集計 | コニーアイランド歴史プロジェクトの記述 Coney Island History Project |
Smithsonian誌は明確に「この数字を検証する方法はない(there is no way of verifying the numbers)」と書いています Smithsonian Magazine。
同時に、現代の小児科医は「クーニーが集めた医師・看護師チームは非常に優秀で、当時のアメリカで最良のケアを実現していた」と認めています Smithsonian Magazine。
参考として、保育器導入前の未熟児生存率は15%程度だったとされる統計も紹介されています(日本語解説記事による) note。仮にこの水準と比べるなら、クーニーの施設の成果は統計的にも際立っていたことになります。
注意: 「約6,500人を救った」と断定することはできないが、「本人は約6,500人を救ったと主張しており、現在もその数字が広く引用されている(ただし検証は不可能)」です。
10. 晩年と死、そして再評価
- 1943年、人気と収益の低下に伴いルナパークの展示が閉鎖。クーニーは「市の病院がきちんとした保育器病棟を開設するまで引退しない」と語っていたが、この時期に展示を終える embryo.asu.edu・Coney Island History Project
- ルナパーク閉鎖の時点で、クーニーの手法は主流の病院に取り入れられるようになっていた Coney Island History Project
- 1950年3月1日、シーゲートの自宅で死去(80歳)。妻はすでに1936年に亡くなっており、独りでの死だった Coney Island History Project・neonatology.net
- ニューヨーク・タイムズに死亡記事が掲載された BBC News
- 死後、保育器は病院の産科病棟に普及した。晩年は経済的にも比較的恵まれず、ほとんど知られぬまま世を去った PBS NewsHour
現在、彼の功績は医師たちによって再検討され、救われた“クーニーの赤ちゃん”たち自身が声を上げて彼を擁護しています BBC News。
「マーティン・クーニーは素晴らしい人だった。彼はその功績で有名になるべきです。彼は私たち数千人を救ったのです」 ―― キャロル・ボイス・ハイニッシュ BBC News
「今なら新しい技術が出ればランダム化比較試験をします。当時はそんなことはできなかった。だから見せ物は、保育器の効果を示す手段だったのです。私たちはクーニーと彼の仕事に多くを負っています」 ―― リチャード・シャンラー医師 BBC News
「ほかの誰も、私を救うために何かをしようとしてくれなかった」 ―― ベス・アレン(1941年にクーニーに救われた元保育器児) BBC News
11. クーニーの遺産 ―― 本当の功績は何だったのか
クーニーの功績は、保育器の発明でも、医学理論の構築でもありません。「技術を社会に実装した」ことにあります。
- 技術の普及装置としての見世物:1896年ベルリンで「10万人以上」が保育器と生き延びる未熟児を目撃した embryo.asu.edu。これは現代でいう大規模な実証デモであり、1901年バッファローでは終了後に地元病院が保育器を購入している embryo.asu.edu
- 医療アクセスの再分配:25セントの入場料で、支払い能力のない家庭の未熟児を無償でケア Wikipedia
- ケアの質の基準づくり:母乳重視、衛生管理、スキンシップ、乳母の健康管理 BBC News
- 人種・階級を問わない受け入れ:当時としては異例の方針 Smithsonian Magazine
そして、この物語には痛烈な問いが含まれています。医学が「治せない」と見捨てた命を拾ったのは、病院ではなく、医学の外側にいた興行師であり、その資金源は「珍しいものを見たい」という大衆の好奇心でした。つまり、公益が公益らしい顔をしていなかった時代の話なのです。
12. まとめ
ブログ記事まとめ
- 医師免許については「記録が確認されていない」 Smithsonian Magazine
- 赤ちゃんの数字は「本人の主張」のみ(8,000人/6,500人/85%)。検証不能であることが一次情報で明言されている Smithsonian Magazine
- 年・場所の情報は諸説ある(コニーアイランド開始は1903年説と1904年説、ロンドン1897年の展示名も資料により異なる)。「諸説あり」
- 生存者の証言ルシール・ホーン、ベス・アレン、キャシー・メイヤー、キャロル・ボイス・ハイニッシュらの言葉が、この物語の説得力を担保している PBS NewsHour・BBC News
- 倫理的な問題「見世物」と「救命」は切り離せない。どちらか一方に寄せると、この人物は見えなくなる PBS NewsHour
参考ソース・関連メディア
記事・史料
- Martin A. Couney — Wikipedia
- The Man Who Ran a Carnival Attraction That Saved Thousands of Premature Babies — Smithsonian Magazine(著者:Claire Prentice)
- How one man saved a generation of premature babies — BBC News
- 如何にコニーアイランドの見世物が未熟児医療を進歩させたか — PBS NewsHour
- Martin Couney and Incubator Exhibits from 1896 to 1943 — Embryo Project Encyclopedia (Arizona State University)
- Dr. Martin Couney — Coney Island History Project
- Martin Arthur Couney (1869-1950) — Neonatology on the Web
映像・音声
- NPR StoryCorps:ルシール・ホーン(1920年生まれ)インタビュー Babies On Display: When A Hospital Couldn’t Save Them, A Sideshow Did(PBS NewsHour より)
- PBS NewsHour:未熟児の医療費をめぐる議論(Deanna Fei氏出演)動画(PBS NewsHour より)
- ベス・アレンのインタビュー音源:Coney Island History Project Oral History Archive
日本語で読める関連資料
- 【時代を先駆けたニューヨーカー】6500名の小さな生命を温め続けたマーティン・クーニー — 旅ジン
- 生命を救ったのは見世物小屋だった:25セントの入場料が切り開いた新生児医療 — note
- 書籍紹介『未熟児を陳列した男:新生児医療の奇妙なはじまり』(原書房)— allreviews.jp
- 奇跡の実話。死ぬ運命だった6500人の子どもをたった1人で救った男 — ナゾロジー



